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2008年 07月 31日
僕はもともと乗り物好きだったが、特に飛行機が大好きだった。小学校の頃までは、空を飛ぶ飛行機の機影を見て、大きさや、エンジンの位置、翼の形状から、「あれはボーイング727」とか、「あれはダグラスDC-9」だとか、機種を言い当てる事ができた。
その僕が、鉄道ファンになったのは、鹿児島県で唯一の私鉄にして、日本最南端の私鉄でもあった、鹿児島交通南薩線の影響による。 僕が小学校の頃、母に連れられて、鹿児島市内から、祖母の住む指宿や親戚の住む松元町まで、当時の国鉄の列車に乗って行く機会が何度もあった。その折、西鹿児島駅の構内に、見なれない車両が停まっているのを目にする事があった。何両も連結して威風堂々とした国鉄の車両とは違って、たった1両きりの寂しい車両だった。普段から見なれた国鉄車両の色とは違って、朱色のボディーに紺の帯を巻いていた。鹿児島の鉄道といえば、国鉄か市電しか知らなかった僕には、なんだか、異様な光景に思われた。 小学校低学年の頃、僕は地図帳を持っていた。祖父からもらった、分厚い、帝国書院発行の地図帳だった。その中の、南九州のページに、国鉄を示す線とは違った、別種の線が引かれているのが不思議だった。それは国鉄とは違う、私鉄を示す線だと父から教えられた。けれども国鉄と私鉄の違いなんて、僕には、よく乗る国鉄とは違う全く別の鉄道があるんだな、という認識で精一杯だった。 ちょうどその頃、鹿児島にもSLが走るというニュースがあった。父は、鹿児島にもSLが走ったら、乗せに連れて行ってやる、と僕に言った。しかしSLの復活は沙汰止みとなり、僕はその話をすっかり忘れてしまった。後年、鹿児島交通がSLを復活させようという計画を立てていたのを知り、それがあれだったのかと、急にその事を思い出したのだった。 小学校3年の春、ある団体旅行で熊本に行った。鹿児島本線上りの特急有明の車窓から、伊集院駅から分岐する細い線路が見えた。単線のその線路は、川を越えて、樹木が生い茂る山の中へと入っていた。その様が、あまりに寂しく、か細いものに子供心にも思われた。 ![]() 南薩線の廃止の方針が打ち出されたのは、昭和57年の12月だった。鹿児島のローカルニュースでは、ほとんど乗客のない列車内の映像が流されていた。 翌年の春、家族で吹上浜まで潮干狩りに行った。父が運転する車は、伊集院から南下し、吹上浜沿いの国道を走った。途中、永吉川を渡る時、国道よりも海側に架かる南薩線の橋が見えた。川面は太陽の光を反射して、きらきらときらめき、その中にガーダー橋がシルエットのように浮かび上がっていたのを、鮮明に覚えている。 大漁だった潮干狩りの帰り、車は小さな駅のそばを通り過ぎた。朽ちて傾きかけた木造の無人駅は、吹上浜駅だった。列車の時間が近いのか、旅行者らしいいでたちの二人の男性が、ホームに立って列車を待つのが見えた。踏切を渡る時、車の窓から、ひょろひょろと貧弱な線路が、夕刻迫る砂丘の松林の中に消えているのが見えた。 ![]() その光景を見てから、それまで以上に南薩線のことが気になり、「乗りたい!」と思うようになった。 両親は、何のために乗るのか、といった反応を示した。そこに行く目的がないのに、なんで南薩線に乗らねばならないのかと。(列車に乗る事自体に目的があるのだという事を分かってもらえずに、旅行を反対されるというのは、それから高校時代まで続いた) それでも粘り強い交渉(?)を続け、夏休みになったら乗れるかもしれない、そう思っていた矢先に、鹿児島地方を水害が襲った。 僕が住んでいたのは、鹿児島の旧市街地を取り囲むシラス台地の下のあたりだったが、その近所でも、流れてきた土砂で道路が埋まった。県全体でも河川の氾濫や土砂崩れなどが起こった。鉄道でも、指宿枕崎線で、線路に崩れた土砂に乗り上げて脱線した列車が、さらに崩れてきた土砂に埋まったり、山川駅で落石が発生して、列車の屋根を突き破ったりの被害があった。 そして南薩線は、全線にわたって崩れた土砂に埋まったり、鉄橋や線路が流失したりして、全面運休となってしまった。土盛が流されて、レールが宙吊りになった映像は、テレビのニュースでそれから度々放映された。 もう、南薩線には乗れないかもしれない。そう思っていた時、部分復旧のニュースがあった。比較的被害の少なかった日置-加世田間で、再び列車が走り始めたのだった。 昭和58年(1983年)7月31日。ついに南薩線に乗れる日がやってきた。その日の昼前、僕は父と一緒に家を出た。 南薩線は、1日に3回、西鹿児島駅に乗り入れていた。僕がかつて、西鹿児島駅構内で見かけたのは、その乗り入れ列車だった。それに乗るつもりだったのが、時間を間違えて、すこし早めに駅に行ってしまった。それで、その前の国鉄電車で伊集院まで向かった。 伊集院駅でしばらく待っていると、西鹿児島駅から、南薩線のディーゼルカーがやってきた。本来ならば、その列車に乗って伊集院から先、加世田や枕崎方面へ行く事になるのだが、伊集院から途中の日置までは、水害から復旧していなかった。 父と僕は、伊集院駅の窓口で、加世田までの切符を買っていた。加世田から先、枕崎までもまた、不通になっていた。僕は当時小学生で、子供切符だったが、国鉄の場合は大人用の切符に「小」と赤く印字してあったのに対して、南薩線は大人用の切符をはさみで半分に切って、大人用と区別していた。 さて、列車からは割合多くの乗客が降りてきた。水害さえなければ、そのまま列車に乗っていてもよかったのだろうが、日置までは臨時の列車代行バスに乗って行かねばならなかった。ほとんど満員で駅前から発車したバスは、「列車代行」の札を掲示していた。 バスの窓からは、水害であぜが崩れてたり、土砂が流れ込んだりして荒らされた田んぼが見えた。バスは、日置までの峠道を越えて、日置に着いた。 ちっぽけな木造駅舎の日置駅前に、バスは到着した。切符を持ったまま、改札口をくぐると、ホームには朱色のディーゼルカーが1両、発車を待っていた。バスから列車に乗り換える人も多く、座席はほとんど埋まっており、僕たちは他のお客さんと相席になった。 列車の中は板張り床で、ビニールレザーの座席は窮屈だった。すべてが、使い古され、古びていた。やがて、列車は発車した。僕にとっては、南薩線の列車に乗った最初の経験だった。 ![]() 列車は、激しく揺れた。冷房はもちろんの事、扇風機さえない列車は全ての窓を開け放していたが、窓の下からは、オンボロ列車がガタガタの線路を走る音、まさに鉄と鉄がぶつかり合うすさまじい音が、「がしゃーん!ぴしゃーん!」と聞こえてきた。エンジンの音が、これもまたガラガラとけたたましく響いてきた。 僕が乗ったのは、前後が丸く流線型になった、南薩線を代表する「丸型」ではなく、当時の国鉄でもよく見られた箱形のディーゼルカーだった。外は真夏の光がまぶしかったのに、車内は薄暗く、くすんで見えた。座席も、車内の壁もくたびれ、傷付いていた。 ガタゴトと列車は上下左右に激しく揺れながら走り、最初の駅に着いた。吉利駅だった。無人でボロボロの木造駅舎と、駅名さえ読み取りにくいほど朽ちた駅名標が、夏の光を浴びていた。 車掌の手笛の合図で列車は再び南へ走りだし、林の中の坂を下りきる頃に、海が見えてきた。濃い緑の松林の向こうに、東シナ海が広がっていた。列車は轟音とともに永吉川の鉄橋を渡った。川の向こうには、河口を塞ぐように横に伸びる砂州があり、そのさらに向こうには、真っ青な海が広がっていた。 永吉、吹上浜、薩摩湖と、松林の中に畑が現われる風景が続いた。松林の中には、列車の乗客に向けて吹上浜を宣伝していた野立て看板が、壊れたまま立っていた。やがて松林の砂丘を下って、開けた場所に出た。伊作だった。 伊作は吹上町の中心地で、この駅は駅員が配置されていた。ホームの向こうには、日置方面へ向かう上り列車が到着していた。南薩線は全線が単線で、上りと下りの列車は、行き違い設備のある駅で離合をしなければならなかったのだ。 その時の光景は、とりわけ鮮明に覚えている。舗装されていないシラス土のホームは白く光り、向かいに停車した列車の中は、対照的に暗く見えた。向こうの列車も、すべての窓が開け放され、こちらと同じく多くの乗客があった。僕の窓のちょうど真向かいの窓には、同じ年頃・・・小学校高学年くらいの女の子がいた。その子は、よそ行きみたいな白い服を着ていて、暗い列車の中に浮きあがって見えた。女の子は窓の外を見ていて、そして僕と目が合った。 けれどもやがて、上り下りのふたつの列車は、同時に発車した。伊作駅は、大きく半円を描くようなカーブの最も奥まったところにあり、双方の列車は走るうちにカーブの内側の側面をこちらに向けた。あの子が座っていたのとは反対側の面である。 白い服の女の子の列車は坂を登りながら松林の中に消え、僕が乗った列車も、カーブを切りながら台地の上へと駆け上がっていった。 ![]() 列車は、駅に着く度に少しずつ乗客を減らしながら、南へと走っていった。 背の高い草むらや藪は列車に迫り、藪を抜けると田んぼが現れ、そしてまた藪に突っ込む、その繰り返しだった。小さい川や用水路をいくつも渡った。僕の記憶が正しければ、北多夫施のあたりまでの田んぼはまだ、青々とした稲が風に揺れながら夏の日光を浴びていて、阿多のあたりではすでに刈り取りが始まっていた。 広々とした田んぼの中に、雑木林に囲まれた集落が点在し、さらにその向こうには金峰山が見えた。対して海側は、吹上浜の大砂丘の松林の丘が、どこまでも続いていた。鹿児島市周辺の、シラス台地と海に挟まれた狭っ苦しい風景を見慣れた僕には、とても開放的な風景だった。列車はその中を、激しく揺れながら、走っていった。 万之瀬川の鉄橋を渡ると、ビルや工場などが現れた。加世田の市街地だった。加世田駅の構内に入り、線路がいくつにも分かれ、その先の草ぼうぼうの側線に、朽ちて壊れた客車や貨車が何両も並んでいるのが目に飛び込んできた。僕は、あれほどまでに荒れ果てた鉄道車両というものを、それまで見たことがなかった。ある意味、衝撃を受けた。 列車は、ゴトゴトと揺れながら、ホームに停車した。本来は枕崎行きの列車だが、加世田から先は水害で不通となっており、そこから先に行く乗客はまたバスに乗り換えなければならなかった。 僕たちは、加世田までの切符だったから、そのまま駅に留まった。加世田駅は、木造の古びた駅だったが、中心駅らしくそれなりに大きく、待合室も広かった。駅に間借りするかたちでうどん屋があり、駅前広場はバスやタクシーの乗り場となっていた。 しかしトイレは汚く、待合室のベンチも古びていた。待合室の壁には、だいぶ昔に描かれたらしい観光案内図が、ほこりに汚れながら掲げられていた。改札口の上には手書きの時刻表があったが、記された列車の数は少なく、しかも水害から復旧した区間でも、バス代行の紙が貼ってある列車もあった。おそらくは、列車を走らせるよりもバスで代行した方がマシなくらい、乗客が少ない便なのだろう。 父と僕は、駅を出て、周辺をうろうろと歩き回った。 加世田駅はもともと、鹿児島交通の前身である南薩鉄道という会社の本社が置かれていた駅で、その名残で南薩線の車庫があった。 駅構内には丸型、箱形のオレンジ色のディーゼルカーが何両も休んでいた。片隅には、何十年も前に使われなくなった客車や貨車が、放置されたままになっていた。その客車や貨車はボロボロに壊れ、ガラスの割れた窓が暗く口をあけ、ツタやカズラが巻き付き、鉄道の墓場のようだった。 ![]() 父と、駅の南の方へと歩いていった。 車庫のそばを通った。窓の向こうには、反対側の窓が、真夏の昼下がりの光を受けて、黄色みがかった白色に輝くのが透けて見えた。 もっと南へと、歩いていった。セミの声は聞こえず、道路のアスファルトからの照り返しが熱い、静かな夏の午後だった。住宅地を抜けると、草の生い茂る土盛りと出会った。水害以来、1か月以上も列車が走らなくなった線路だった。踏切から線路の伸びる方向を見ると、赤錆びたレールが夏草に埋ずもれていた。線路のそばには旧式の信号機が、腕木をまっすぐ横に伸ばしたまま佇んでいた。 また駅のほうに戻り、駅構内の境にある踏切を渡った。踏切のそばにはまた別の車庫があった。古い木造の車庫の中を覗くと、蒸気機関車が見えた。踏切から駅構内を眺め渡すと、線路が右や左に分かれ、その先に、日を浴びながら休む朱色のディーゼルカーの顔が並んでいた。 それから、加世田に住む、父の知り合いの家に寄ってから、夕方にまた駅に戻ってきた。 出札口や改札口は、発車直前にならなければ開かなかった。ペンキで白く塗られた木組みの改札口の下には、改札鋏からこぼれ落ちた切符のかけらが散らばり、時折待合室を吹き抜ける風が、それらを静かに弱々しく飛ばしていた。 「改札を始めまーす」 駅員が改札口に立った。数人が椅子から立ち上がり、改札口を抜けた。ホームには、まだ列車はなかった。線路の向こうに並ぶ廃車体は、傾いた西日を受けて、めくれあがった外版や、かずらが作る濃い影が痛々しさを際立たせていた。 しばらくすると、伊集院方向から警笛が遠く聞こえ、ディーゼルカーが線路の向こうに現れた。夕方のすこし鈍い光の中で、ディーゼルカーの朱色が余計に赤っぽく見えた。 日置から走ってきた1両編成のディーゼルカーは、ゆっくりとホームに停まった。数人の乗客を下ろし、入れ替わりに、僕たち日置方面に行く乗客が乗り込んだ。ホームと反対側の座席に座ると、側線の廃車の群れが窓越しにより一層近付いて見えた。 時間が来て、汽笛とともに列車は走りだした。床下から、ごつん、ごつんという振動が座席を通して伝わってきて、そしてその振動の間隔は速度が上がるにつれ短くなっていった。窓の下を見ると、駅構内に広がっていた線路がどんどん収束していき、列車の下に吸い込まれるように合流していった。 列車はゴトゴト激しく揺れながら、そしてギシギシ軋みながら、北へ向かっていった。南多夫施のあたりでは、色付いた田んぼが夏の夕刻の光線を浴びて黄金色に輝いていて、家族総出で稲を収穫しているのも見えた。金峰山の上には夏雲が湧いていた。 乗客は僕たち二人を合わせても6人しかいなかった。外の光が黄色からオレンジ色へと刻々と変化していき、それにつれて、灯かりの点かない車内の影はどんどん濃くなっていった。 行きでは白い服の女の子が乗った列車と行き違った伊作では、今度は行き違いの下り列車はなかった。薩摩湖では、遊びに来たらしい小さい兄弟たちが列車に手を振っていた。松林の中は一足先に日没が来たように暗く、その中を列車は坦々と、走っていった。 やがて日置に着いた。バスに乗り換え、国鉄伊集院駅へ。ホームに出ると妙に魚臭く、ひょっとしたら向こうの側線に停まっている貨車の、積荷の匂いかもしれなかった。夏の日はなかなか沈まず、薄明かりの中でホームに立っていると、西鹿児島行きの列車がやってきた。電車やディーゼルカーではなく、旧式の、ぶどう色の客車が数両、機関車に牽かれた列車だった。ひょっとすると南薩線のディーゼルカーよりも古い車両かもしれず、冷房の無い車内は窓は全開で、それどころかデッキの手動扉も開いたままだった。けれども、天井の蛍光灯は明々と灯り、扇風機は生暖かい夏の夕刻の空気をかき回していた。 西鹿児島駅に付く頃には日は暮れ、宵闇が降りはじめた住宅街を、歩いて家まで帰った。そうして、その日の南薩線の旅は終わった。けれどもそれは、僕と南薩線との長い付き合いの始まりでしかなかった。 < 前のページ次のページ >
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